消えかかる

ひとつの命が消えかけようとしています。
野良猫が産んでいった子猫をひろって
八年とちょっと。
それからずっと一緒にいます。
歳を経て、体調や精神的なところまで
悪くなっているのが
見てわかるようになってきました。
何度も何度も病院に行き、対処してもらい、
自分自身も試行錯誤してきました。
それでも命は神の領域。
この世にうまれ落ちた生物には
命の操作なとできないのです。
限界があるのです。
消え行くときは
消えてしまうのです。
それでも、諦めてはいません。



たった、ひとりの読者様
お久しぶりです。
この一年間、いろんな事がありました。
それは良いことではなく全て悪い事です。
お薬も増えました。
久しぶりに書くのが怖かったです。
それでもあなたはいてくれた。
涙しました。
貴女のプログは
私の心が疲れてきったとき
何度も訪問していました。
優しさと厳しさを持ち合わせてる貴女の
言葉は胸に響くのです。

コメントありがとうございました。
お返事の準備をしていますので
読んでくださると嬉しい限りです。

誰かを想うこと

私が強く想っていても
その人から平等の想いが貰えるとは限らない
またその逆もあるだろう

忘れるということは残酷だ
きっと忘れた事にさえ気付かない

私を忘れてしまった人は
私が死んでいることと同じだ
存在していない事と同じだと言える

そして私がどれだけ想っていようとも
その人の中に私がいないのなら
この世に存在していない事と同じだと言える

人の気持ちはいつでも平等ではない

おしてみたり、ひいてみたりと
駆け引きなんて意味のないことだろう

その人の私という位置を変えるには
どうすれば良いだろうか

積極的という行為は賭けだ
決してポジティブな行動でないとおもう

追いかけられたら逃げる生き物
積極的な行動は
追いかける事と同じではないのか


時間が解決するには
ひどく身体に負担のかかることだ

何故なら
私たちの時間は永遠ではないからだ

突如どちらかに時間の終わりがくると考えたら
取り乱してしまう

時間の終わりがある瞬間を知っているから

どんなに深く想っていようとも
時間は赦してくれない

命日

父の命日は7月に入りもうすぐだ。

父の命日は非常に蒸し暑い時期であり、長時間いるのが大変で、日にちをずらし行くこともあった。

命日にひとりで訪れたのは1度だけである。




父が出棺される前、家の前でお坊さんがお経を唱えたり身内が挨拶をしたりするのだが、とんでもない土砂降りと雷だったことを覚えている、これは私の傷のひとつでもある。父の憤りさえ感じる、怒りと悲しみの、雨、そして雷だ。きっと皆そう思っていたに違いない。そして、その時の私の感情は怒り、であった。父を陥れた人達への。そして何も出来ないただの子供だった自分への、怒り。


 
皆の喪服が雨で塗れ、狭い家の前で傘を持つ人々。私は誰か大人の傘にいれてもらい、止めどなく涙が溢れていた。誰もがなんと声をかけて良いのかわからない、とゆう気持ちが読み取れていた。

歳上の従姉たちは心配そうに目を配っていてくれたのを今でも覚えている。お姉さんだけあって私が園児の時にはお下がりのマニキュアをもらったり口紅をもらったり、とっても良くしてもらったのだがお礼ひとつ言えず、今では実家を出、家族を含め、誰一人と私の居場所を知らない。たまに心苦しいときもあるのだ。





そして、誰にも言わずお墓に行きお花をそえる。

父のお墓には、祖母、祖父、伯母、伯父、と埋葬されているのだが父は二番目に入るくらいそれは早い死であった。自分の両親より早く亡くなったという現実は辛いものである。





自分の家庭内は崩壊し、お墓をもてていないから、きっと父と同じお墓に入ることはできないのだと思う。

というのも、お墓の内部が雨水で浸水し、骨壺が浮いてしまい、それぞれのお骨もバラバラになってしまったという出来事があったのだ。それは拾われそれぞれに納め直したということだが、父の骨壺に父の全てがないなんて信じられないし怒りさえわくのである。  

父の骨壺は確か白、だと言っていたが、確かな話ではないし、まさかそれぞれの名を刻めず納めるとは思いもしなかった。どうなのでしょう。こんなことってあり得るのでしょうか?




だから私がお墓を買ったとしてもどれが父なのかわからないから移せないのである。

ならば私が会いに行けば良いし、死んだら肉体はおいて行くしかないのだから、、、きっといつか会えると、会えると、、信じて。


お父さん。




 

お父さんが全てだった。  それ故に全てを大切にできなくなってしまった。  自分が嫌われ笑われ、ごみのように扱われた分、自分を殴ったり切ったり自分に罰を与えると、自分の半分のお父さんにごめんなさい。と。


わたしの半分はお父さんでできている。だから自分が痛いときっとお父さんも痛みを感じている気がするんだ。

虫さん

車の助手席の窓に虫がとまっていた。  一瞬Gかと思ったがよーく見たら触角がいように長いが春の虫って感じの風貌で、色は茶と白が斑で、形はコオロギやホタルのような、Googleで調べてみたが不明である。
  

少し気になるも走ってしまえば逃げるだろうと思い、ちらちら見ながら走っていたが一向に落ちず五分ほど先のスーパーにまでついてきてしまった。


駐車場に止まってよーく見たら足が窓に挟まっているのである。わたしが窓を開けた時にどうやら足も一緒に入ってしまったようだ。 

また一度開けて閉めたらとれるかも、と開けてみたら、おばあちゃんが転んだような動きをして焦ってしまった。痛かったに違いない。


外に出て見てみると6本?くらい足があって右足の一番前が挟まっていた。しかもギーギーと鳴きながら一生懸命抜こうとしてるのである…。


車のキーの先端で引っかけて抜こうとするも、ギーギーと鳴いて痛がってるように見える。どうにかならないか…車の中に何かめぼしい物がないかと探していたらコンビニで貰った割り箸があった。そのなかに爪楊枝があるはず!


車の窓と縁のフェルトの様なところの中に爪楊枝でさして空間をつくってあげたら、足がぬけて落ちた。良かった!脚はとれてはいないようだ。
 
落ちた虫さんはテクテク歩いてゆく。ここは駐車場だ。ひかれてしまう瞬間が脳裏に浮かんで焦った。爪楊枝に虫さんをのせてちょっとずつ端の草むらに置いた。良かった良かった。




そういえば虫さんを助ける為ずっと独り言を言っていたのでどうみても不審者だ。スマホの懐中電灯をあてての作業だったので余計である。



虫さん、どうか命をまっとうしてね。虫も痛がるし、助かろうと頑張るんだなって思った。ギーギー鳴いていた虫さんがいとおしく思った。虫さんは何を思っただろう。小さくても心があるにちがいない。

猫は旅行に行かない

ふとそんなことを思った。  猫が私の目を見てニャーとなく。  暇だったのかニャーニャーニャーとなき止まない。  走ってみたりウロウロしてみたり気を引かせようと必死だ。  そんななき落としに負けておやつをあげてしまう。  そんな日常だ。


旅行なんてもし長生きしておばあちゃんになってからでいい。   今はここにいよう。


猫は窓の隙間から様子を見ている。   何が見えてるのだろう。   風を感じ陽を感じ、鳥のさえずりや虫の気配、草のなびく音、人工的な騒音。  彼たちは何を感じるのだろう。


ひっそりコッソリしているようで、ひとりでワクワクひとりで走り回ったりしているのは猫。 ひとりの楽しみかたを知っている天才。   私たちがおもっているより、きっと色んなことを考えている。  



 

寝れない春

世間は花見で随分騒がしいようだ。桜を見るのはひとりが良い。 生まれてこのかた花見をしたことがない。誘うこともなければ誘われたこともない。  桜を見るなら静かな場所で佇みたい。  そういえば父と桜を見たことはあるのだろうか? 思い出せない。   たった九年間しかいられなかったわけだからなくてもおかしくはない。  最後に桜を見たのは桜の散りゆく姿だったように思う。  10年ほど前だったか。  花はときにはさみしさを誘う。  公園の桜の下に、捨てられて死んでしまった子猫を釣りのおばあちゃんと埋めたことがあった。  二匹共に別々の場所であり 一匹は垂れ桜が見事な木の下であった。  桜に感動を覚えたのはこの時が初めてであった。 今日もきっと見事に咲き誇っているに違いない。  桜をお墓に供えるのはどうだろう。  父のお墓参りには何度か行っている。  行き交う人々は皆家族や親戚の集団の様で、私のように一人で来ているのは少し浮いていた。  なんせ一昨年だったかの父の命日近くには、薔薇をそえたのだから。  私は無知で薔薇一本がそんなに高いものだとも知らずに、二本しか買えなかった。  普通のお花が良かったかもしれない。  しかも薔薇はトゲがあるから向いていない、とお花屋さんが言っていた。  とことん無知である。  私の愛するミュージシャンの命日には決まって色とりどりの薔薇が添えられる。  しかも一本二本ではない。  束なのだ。 それはミュージシャンだから、とゆう声が聞こえてくるが。  なんだか父に申し訳なくなった。  今年の花はきちんとしたものをあげよう。